教室の紹介
設立からの沿革と歴代教授の紹介
太平洋戦争も末期になったころ、激増する医療需要を満たすために広島においても医学専門学校設立の話がもちあがりました。
昭和20年2月13日、広島県立病院を附属病院とした広島県立医学専門学校の設置が認可され、4月に入学試験が行なわれて定員150人に対して171名が入学を許可されました。
8月5日になって、ようやく林道倫校長と教官3人、学生170人が出席して開校式が挙行されました。ところが、翌8月6日、原爆が投下され、医学校として予定されていた建物や設備のすべてが灰燼に帰しました。教官と学生の大部分は、幸運にも開校日当日のうちに県北の高田郡小田村の高林坊に疎開しておりましたが、附属病院となった県立病院の職員のほとんどの方が亡くなりました。
残された教官と学生は広島県内を転々とし、ようやく昭和22年2月1日に呉市立市民病院を医学専門学校の附属病院として持つことができました。そして同年4月、広共済病院で診療に当たっていた赤木五郎が広島医専講師として発令され、同年9月に教授となり、眼科学教室の歴史が始まりました。
赤木五郎教授はトラコーマや緑内障の研究を続けるかたわら教室の基礎作りに励み、昭和26年春には教室員の数も10人を超えるようになりました。赤木五郎教授は昭和26年10月に母校の岡山大学の教授として転出しましたが、後に岡山大学学長、川崎医科大学学長などの要職を歴任しました。
昭和26年11月、倉敷中央病院眼科医長であった百々次夫が後任教授として発令され、12月に着任しました。百々次夫教授の指導で網膜剥離をはじめとする網膜・硝子体疾患および放射線白内障に関する研究が始まりました。当時は網膜剥離を治療できる医療機関は多くなく、さらに昭和37年にキセノン光凝固装置が東洋で初めて導入されました。百々次夫教授は昭和44年5月、激烈を極めた学園紛争の最中に医学部附属病院長に選任されました。
昭和50年4月からは、調枝寛治が教授として就任し、網膜・硝子体疾患の研究が引き継がれました。調枝寛治教授は、平成4年4月から医学部附属病院長、平成6年4月からは医学部長を併任しました。
平成8年5月に、三嶋弘が教授に就任し、緑内障の臨床、研究に従事しました。平成13年に第12回日本緑内障学会、平成14年に第25回日本眼科手術学会を主催しました。三嶋弘教授の緑内障研究は、現教授の木内良明に引き継がれています。
歴代教授
トラコーマの病原、房水流出機構の研究を行い、緑内障の「眼内圧の自動調節機転について」新知見をあらわした。
本邦における網膜剥離手術の先駆者として、網膜剥離ならび硝子体に関する臨床研究と基礎研究を行った。昭和26(1951)年には経瞳孔路硝子体混濁切除および開窓法を世界で初めて考案実施するなど、世界に先がけた硝子体手術の創始者であった。ツァイス社キセノン光凝固装置を用いて、光凝固に関する臨床・基礎研究を実施した。光凝固は各種網膜疾患の治療と予防に関する研究に大きな威力を発揮し、臨床上きわめて有用であることが判明した。40年頃から、電子顕微鏡による水晶体や涙腺などの眼組織の研究を開始した。また一方で、放射線白内障について実験的および臨床的研究を全国に先がけて手がけ、数多くの研究成果を報告した。
昭和50(1975)年から、電子顕微鏡を用いた研究をさらに発展させ、細胞生物学的研究を引き続き行った。網膜の発生や網膜色素上皮の放射線の影響について研究をした。52年ころから緑内障の基礎的研究として、毛様体の組織培養や眼圧調節機構についての細胞膜の情報伝達系についての薬理学的また組織学的な研究を開始し、数多くの新知見をあらわした。また、角膜の分野では、単純ヘルペスウイルスを用いた角膜ヘルペスの免疫学的、また薬理学的な研究を行った。
これらに引き続き、毛様体での解毒代謝酵素、グルコース輸送タンパク、網膜芽細胞腫の発癌遺伝子、網膜のグルタミン酸受容体、神経伝達物質の分泌制御機構、網膜色素上皮細胞増殖の制御機構、毛様体における細胞内情報伝達系、角膜移植にともなう移植免疫に関する研究が行われた。
赤木・百々・調枝と続いた教室の伝統を受け、眼科学教室の主要テーマは網膜・硝子体疾患ならびに緑内障の臨床・臨床研究と研究であった。
網膜・硝子体疾患については増殖性網膜症の発症機序についての分子細胞生物学的研究を、緑内障発症の機序についての研究、緑内障の神経細胞死(アポトーシス)の研究、眼薬効動態の研究、緑内障の治療薬の開発などが行われた。
平成9年度からは厚生省厚生科学研究感覚器障害のビッグプロジェクトに参加した。
臨床に近い分野では眼圧や房水循環動態の日内変動、網膜循環を制御する因子、眼圧下降剤による前眼部の形態学的変化についての研究を行った。